Introdcution

「見えないスポーツ図鑑」第3回でトライしたのは、セーリングです。実は近代オリンピックが始まった1896年の第1回アテネ大会から正式種目に採用されている、歴史のあるスポーツ。風、波といった自然の条件、そして他の艇との駆け引きなど、多くの要素を瞬時に判断しながら競争する、ダイナミズムに満ちた競技です。
またヨットによるクルージングは、2019年4月に全盲のセーラーによる世界初の太平洋横断成功がニュースになるなど、大掛かりな挑戦が注目される一方で、サイクリングのように日常的にセーリングしている人も多く、距離の長短や旅の目的に応じて多様なスタイルで自然を楽しむことができます。
海上のスポーツという独特の世界を解説くださったのは、創価大学教育学部教授の久保田秀明さん。久保田さんは9歳でセーリングを始め、モノハル(単胴)、カタマラン(双胴)、トリマラン(三胴)など、様々な形のヨットの魅力を探求してきました。
研究者としては、国内各地と海外のヨットの指導法を比較し、ヨットを教育に活かす方法の開発に取り組んでいます。今回はご自身が習得されてきた身体感覚もあわせ、まさに「見えない」海上の身体感覚を語っていただきました。研究会メンバーも、未経験の「海上」に繰り出すことができるのでしょうか。

Section 1

レクチャー風や波、傾きを御す

久保田: 皆さんが風で走る船というものをイメージされるとき、「横帆船」を思い浮かべる方が多いかもしれません。クリストファー・コロンブスが初の大西洋横断の際に乗っていたような、船の前後に対して横方向に帆を張る船のことです。これは、船の後方から吹いてくる風をとらえて前進する。「追い風だ、帆を上げろ」などというセリフが海賊ものの映画に出てきますが、真後ろから吹いてくる風を帆が受けて発生する「抗力」、つまり風に押される力を主な推進力として船が前に進むわけです。日本の室町時代から江戸時代に、海運で活躍した千石船もこうした「横帆船」で、風向きが悪い時に風を待つ港が各地で発展しました。
レクチャーイメージ1
久保田: 一方で、セーリングで重要になるのは「縦帆船」の原理です。約5000年前から2000年前にかけて、人類は東南アジアのあたりから南太平洋の島々やハワイへと、西から東へ太平洋を渡っていったと考えられています。このとき、貿易風や海流は進路に対して逆風・逆流でした。すると、抗力を使う船では前に進めないわけですね。
そこで、船の前後方向に縦に帆を張る「縦帆船」の出番です。この船は、帆(セイル)の表裏の両面にきれいに風を流すことによって揚力を発生させ、風に対して45度くらいの角度までは切り上がって進む――つまり、風上に向かって走ることができるのです。ちょうどこの場に小さな扇風機と布がありますから、これを用いて解説してみましょうか。
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久保田: 風に対して布の角度を調節していくと、旗のようにバサバサとなびいていた布の振動が弱まって、布の表と裏にきれいに風が流れていくようになります。このとき、それぞれの面で生じる風圧の差によって、風圧が低い方に風の向きに対して直角の方向に吸い寄せられる力が働く。この力を「揚力」と言います。飛行機が飛ぶ原理と一緒です。飛行機の翼では「揚力」が上に働くので空を飛ぶわけですが、ヨットの帆は洋上を進ませる力を生み出します。
オリンピックで実施されるセーリングは、種目によって1艇に1~3人が乗り、風に対する帆の形と艇の進行方向と艇の傾きを、同時に調節しながら帆走します。様々なコントロールロープがある中で、帆の開き具合を調整する「シート」と呼ばれるロープは、特に頻繁に操作されます。
もう一つ、水中に差し込まれた舵に直結している棒状の「ティラー」、いわば車のハンドルのような役割をするものがあります。これを操作して舵を動かし、艇の向きをコントロールします。波や風に対して艇の進行方向を微調整するために、レース中はティラーも頻繁に操作されます。
また、船体の左右の傾きを「ヒール」、前後の傾きを「トリム」といいます。オリンピックで使われるような競技用のヨットでは、ヒールとトリムを乗員の体重を移動させることで調整しています。乗員が体を艇の外に大きく乗り出してヒールを抑えようとしている場面を、皆さんもご覧になったことがあると思います。
ヨットの癖として、風が強くなってヒールが大きくなると、進路が風上側に切り上がり、ヒールが小さくなると自然に風下側に振れていきます。これらの動きを、頬に当たる風やお尻で感じる傾きなどから予測して、フラフラした走行にならないように早め早めに舵を切っておくことを「当て舵」といいます。当て舵をする際にもティラーは細かく操作されます。
このように私たちセーラーは、ヨットを効率よく安全に目的地に向かわせるために、身体に直接伝わる風の感触、シートに間接的に伝わる帆の様子、あるいはお尻で感じるフネの挙動や加速感、といったものを通して三次元的に感知しようとしています。その一番の基本となるのは、どこから風が吹いてきているか、風上の方向を正確に捉えることです。
自分で作ったヨットで世界を一周した、私のヨットの師匠のような達人であれば、仮に船室で寝ていても「いまの風に見合うような加速がないな」といったことに一瞬で気がつく、「絶対風感」とも言うべき鋭い感覚を持っていると思います。そこまではいかなくても、風向と風の強弱を五感で感じ取り、操作に対する船のリアクションを予測することができる、「相対風感」と表現すべき感覚は、セーリングの練習を重ねることで磨いていくことができます。
今回のレクチャーに備えて助言を求めた際に、「この感覚をつかむことは、目が見えない人も可能なのではないか」と私の師匠は話していました。
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久保田: 海上交通の世界には、右舷から風を受けて(スターボード・タックで)帆走している船と、左舷から風を受けて(ポート・タックで)帆走している船が互いに接近した場合、スターボード・タック船は進路と速度を保持し、ポート・タック船はこれを避けなければならないなど、保持船と避航船を定めた交通ルールがあり、これはセーリング競技でも適用されます。
またレースでは、良い風を取り合うという争いもあります。できるだけ他艇の影響で乱されていない、フレッシュな風を受けた方が自艇のスピードが上がるので、良い風を受けられるポジションをキープすることが大事になってきます。
オリンピックでは、スタートラインから風上マークに向かうコースは、スターボード・タックもポート・タックもほぼ同じ距離を走らねばならないようにコース設定されます。すると、マークを回るために狭い水面に多くの艇が集まるときや、自艇と他艇の進路が交差するとき、風の振れやルールの条件を考慮して、どの段階でスターボード・タックをとることが有利になるのか、という判断が求められます。自然の変化と他艇の動きを予測して自艇の作戦を立てることも、セーリング競技の魅力です。

Section 2

試行錯誤不安定さを翻訳する

久保田: 複数の乗員で操縦する際も、主帆を操るためのメイン・シート(=ロープ)と、舵を操作するティラー(=舵柄)を通常一人で担当しますから、その一人の視点で考えてみましょうか。
伊藤: まずはヨットの操縦者が座っている感覚の翻訳ですね。
久保田: 競技用のスモールボート(セーリング・ディンギー)では、フネの前方に対して横向きに座ります。
林: 主にお尻で波を感じるわけですから、洋上での不安定さをだすために、クッションを3つほど重ねて座ってみる、というのはどうでしょうか。
渡邊: 帆につながったシートを持っている状態は、どう表現すればいいでしょう。
久保田: 床に固定された滑車を通って、シートは帆が受けている風の強さを伝えてくれます。シートを持っていて、それが風の力によってグッと引っ張られた――つまり張力が強くなったら、それだけフネが傾くわけです。そうした力を感じたら、自分の体を外に出してフネを起こす、ということをやってみるだけでも、大きいかもしれません。
林: ではちょっと、この紐を使って、私が風になってみます!
伊藤: 何だかポエティック……(笑)。
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久保田: 単純化すると、そんな感じですね。風によって帆が引っ張られる感覚がシートを通して伝わるように、紐を引っ張る。クッとテンション(緊張)が強くなったら体を後ろへ、フネの外へと乗り出すし、緩まったら今度はそのままではフネが逆に傾いてしまうので、姿勢を戻す、という按配ですね。こうした”反応“を、セーラーは常に行っています。
伊藤: でも、このままでは舵の感覚はよくわからないですね。
久保田: 先ほど「当て舵」のお話をしましたが、シートと舵をそれぞれ、わかりやすい例で分けたほうが良いと思います。
渡邊: 状況を読んで「当て舵」をした場合、船体がその操作に従うまでのタイムラグはどれぐらいあるのでしょうか。
久保田: 凡そ0.5〜1秒程度でしょうか。車のハンドルには構造上の「遊び」があり、車体が反応するまでに多少の時間差があります。ヨットは流体の上にいるので、舵を切ってからフネが向きを変えるまでの敏感さは、フネの速度や重さによって大きな違いがあります。遅いときほどそして重いフネほど反応の遅れが大きくなります。いずれにしても、実際に波を受けてフネの頭が振られてから対応すると、反応がどんどん遅れて蛇行が大きくなり、酔っ払い運転のようになってしまいます。
お尻を通じて感じる波、体の三半規管で感じる傾きといった情報も含めて早めに「当て舵」をしていくわけですが、それが遅かった、早すぎた、ということは起こるので、それでロスをしていく。タイミングがうまく合うと、真っ直ぐに走らせることができるんです。
林: 中に重しが入っていて転がる筒状のおもちゃがあるんですが、風や波などの環境を読んで当て舵をする感覚として、これを板の上に乗せて、落とさないように転がし続ける、というのはどうでしょうか。
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久保田: なるほど! これはいいかもしれませんね。板の上の物体が転がっていくのに対して、操作が遅れてしまう感じがいい。
渡邊: 操作が遅れてしまう、その時間差も予測しながら舵を当てる、ということですよね。この物体が落ちないということが、すなわちフネが真っ直ぐに進むということの言い換えになっている。
そして、この舵と先ほどのシートを、片手ずつで別々にやる、ということですよね。波と風は常に変化し続けているわけですし……。
伊藤: クッションを複数重ねた上に座る、というのはそのままのほうがよさそうですかね。
渡邊: 不安定な状態で不安定なものを扱う、というのがいいのかも。
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久保田: だいぶ感覚的には近くなってきた気がします。(ベビーパウダーの容器を転がしたり、筒に滑り止めをつけたりして試しながら)シンプルな問題として、筒だと転がる向きが変わってしまいやすいのと、乗せる物にしても板にしても、手の力だけで簡単に操作できる軽いものである方がよさそうですね。あとは板に枠を設けてみましょうか。
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久保田: もう一点として、傾きを感じさせる、転がる音がする物であれば……この木製の小さなボールがいいかもしれません。
渡邊: 板の持ち方なのですが、縦に持つのではなく横にして、真ん中を持つとどうでしょうか。
久保田: ああ! 素晴らしいです、これはまさに舵を取る感覚ですね。フネが右に曲がったり左に曲がったりするのを、なるべく真っ直ぐにしようという「当て舵」の感覚が、揺れる中で板のセンターに球を維持しようということに見事に表現されています。
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Section 3

結論複数の要素を、同時に操る

林: では改めて、帆を操るシートと、舵をとるティラーを、片手ずつで同時にやってみましょうか。
久保田: 実際のセーリングでは、床にフットバンドというものが張ってあって、そこに足の甲をひっかけて、操縦者が海に落ちないようにしているんです。それも再現しながら、両手で操縦してみましょう。
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久保田: いいですね! シートが引っ張られたら体を倒し、緩んだら体を起こす。そうした動作をしながら、もう片方の手では、ボールが落ちないように板の傾きを常に調整する、と。たとえよそを見ていても、伝わってくる感触を通じてフネを真っ直ぐに走らせようとする感じがうまく生きていると思います。
それまで風を受けていたのとは反対側から風を受けるように方向転換することを「タッキング」と言いますが、複数人がフネに乗っている場合は、艇長役の人が「レディー・フォー・タック!」または「タック用意!」と全員に声をかけます。全員から「レディー!」と声が返ってきたら、「タッキング!」と号令をかけて風上に向かって方向転換し、乗員は一斉に座っている場所をフネの反対の舷に変えるんです。シートとティラーを背中側で持ち替えながら――前で持ち帰ると自分の進行方向をシートが邪魔してしまうので――移動するんですが、帆の下部にあるブームと呼ばれる、横に伸びた棒に頭をぶつけないように注意しなければいけません。それもちょっとやってみましょうか。
林: では……レディー・フォー・タック!
久保田: レディー!
林: 「タッキング!」
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一同: おお~!
久保田: いやはや、私の体幹がないのがバレバレですが……(笑)。
伊藤: ひとつ伺わせてください。ここまでヨットを操作する感覚自体を翻訳してきましたが、レースの内容を翻訳する、というのはなかなか難しいでしょうか。
久保田: そうですね、レースを翻訳するとなると、駆け引きの要素が複雑でかなり専門的になってしまいます。まず基本的に、多くの人にとってセーリングの入り口は、レースではなく帆走そのものを楽しむことです。レースとしてのセーリングというもの自体が、非常に専門的な世界なんですね。
皆さん、卓球をすることがあると思いますが、ラリーが続くようになったら、気軽にゲーム(試合)をすると思います。ヨットは乗り物なので、自転車に乗ることと自転車競技に参加することの関係に近いかもしれません。レースを専門にセーリングをする人もいますが、日常的には競走をせずに、セーリングそのものを楽しむ人も多くいると思います。
渡邊: 鳥瞰図的なレースの視点というのは、セーラーの方にとっても、普段はあまり考えない視点、ということでしょうか。
久保田: そうとも言い切れません。たとえば野球を愛好している方は、試合を想定した練習をし、自ら試合に参加し、きっとプロ野球の試合も観戦しますよね。しかし日頃から、どの程度競技性の強い練習をしているかというのは、愛好者自身の志向に依るところが大きいと思います。セーラーも同じでしょう。ヨットにも草レースからプロのレースまで、様々なレースがあります。さらにヨットには、風に吹かれて旅をするという楽しみ方もあります。
常に、鳥瞰図的なレースの視点を意識して、競技性を強く志向して練習することも、旅の相棒としてヨットと付き合うこともできる、セーリングの世界は本当に奥が深いと思います。その意味で今回の試みは、競技としてのセーリングのすべてを翻訳してはいませんが、競技性の有無にかかわらず共通している、セーリングのベーシックな感覚を翻訳する一歩は踏み出せたと思います。私にも多くの発見がありました。ありがとうございました。

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(イラスト:加納徳博、写真:西田香織、編集:宮田文久)